たしかな愛

半分くらいはフィクションです。

適切ならざる川の適切な私たち

「死ぬのが怖いとか思わなくなったな」

ソファに伸びていた妹が、独り言のように呟いた。「だって今まで生きてきた人はみんな死んでるわけだし、死ぬのってせいぜい生まれてきた時と同じ位の出来事だよね」と。

「それに結構もう自分の人生に満足しちゃってるっていうか、なんだかんだ今が最高だと思ってて。最高な状態で死にたいし、だから今、死んじゃっても全然いい」

 

私たちは甘夏がのったレタスサラダと、挽肉と茄子のドライカレー2皿、それにタピオカミルク3杯(母が作りすぎてしまったと落ち込んでいたので、おかわりせざるを得なかった…というのはただの口実で、事実すばらしく美味しかった)を平らげた後、ハーゲンダッツの期間限定を分けあったばかりで、文字どおり心身ともに満たされてしまっていた。食後の心地よい気だるさと眠気を、私たちは心底愛している。

2人とも快楽主義で刹那的な生き物なので、自分の欲望には酷く忠実なのだ。今年の夏は痩せよう、という契りを何度交わしたか分からないが、体重は年々増していく一方である。たまにTシャツの裾を互いにめくっては、お腹の端をつまんでくすくす笑い合っている。

横たわっている妹のお腹を確認していると、コーヒーサーバーを手にした父が、「飲む?」とキッチンから顔を覗かせた。妹と私は間髪入れず、飲む!と叫ぶと、飛び起きて食器棚を開き、コーヒーカップの選定を始める。

今日は暑かったから向日葵模様のカップにしよう、と妹。

確かに今、死んじゃっても全然いいなあ、と私。

 

 

捨てなければならないゴミがあり、明日がその回収日だったので、コーヒーを飲んだ後、私は家に帰ることにした。

神奈川の実家から東京のワンルームまで、電車で約1時間半。電車の中、久しぶりに江國香織の『泳ぐのに安全でも適切でもありません』を開いた。

『泳ぐのに安全でも適切でもありません』は愛にだけは躊躇わない女たちを描いた短編集で、表題作の「泳ぐのに安全でも適切でもありません」は、哀しみを愉快にやり過ごしてきた女と、その家族の話。

「泳ぐのに安全でも適切でもありません」というのは川の立て看板の文言で、作中、一家がヘンテコな水着(テロテロに伸びてしまった手編みのニットの水着)を着てその川を渡ろうとする、という描写が出てくる。それは困難を笑ってやり過ごしてきた一家の比喩なのだけれど、湿っぽいところはなくユーモラスで、何より彼らはそんな自分達を好ましく思っている。

側から見れば滑稽で、あんまりカッコ良くない家族は、私の家族に似ている。その代わり、目の前の川を楽しむことには貪欲だ。私たちは、泳ぐのに安全でも適切でもない川を愉快に泳ぐことに関しては、ちょっと秀でていると思う。

 

ちなみに巻末には、こんなあとがきがついている。

人生は勿論泳ぐのに安全でも適切でもないわけですが、彼女たちが蜜のような一瞬をたしかに生きたということを、それは他の誰かの人生にも起こらなかったことだということを、そのことの強烈さと、それからも続いていく生活の果てしなさと共に、小説のうしろにひそませることができていたら嬉しいです。

瞬間の集積が時間であり、時間の集積が人生であるならば、わたしはやっぱり瞬間を信じたい。SAFEでもSUITABLEでもない人生で、長期展望にどんな意味があるのでしょうか。

私もまた、 彼女たちの一人なのでした。

(そしておそらくは)

瞬間瞬間を信じて愛でたいと思う、

私もまた、彼女たちの一人なのでした。