たしかな愛

半分くらいはフィクションです。

ブルーベリーナイト

物心ついた頃から、人の裸を見るのがすきだった。おそらく、長いこと銭湯通いをしていたせいだと思う。

幼稚園に上がる頃まで住んでいた家は、もともと病院だった建物をどうにか住めるようにした建物で、家と呼んで良いのかも分からないようなところだった。底の見えないトイレと湿った長い廊下、ほの明るいレントゲン室、アルコールの匂い…。もちろんお風呂なんて気の利いたものはなかったので、父と母は私を抱えて、毎日変わるがわる近所の銭湯に通わなければならなかった。父と母の苦労は計り知れないけれど、幼い私には見知らぬ人の裸を見るのが不思議で面白く、楽しかった。

毎日男湯と女湯を行き来して、たくさんの裸を見た。水鉄砲をくれたおじいさんには太もものあたりに大きな黒子があって、プリン髪のおばさんの爪は、いつもつま先まで完璧に磨き上げられていた。

人の裸を見ると何故か元気が出てしまう。いつかストリップショーとか見に行ってみたい。

 

大好きなヌードモデルがいる。名を兎丸愛美さんという。その名の通り、愛らしく、美しいひと

私はヌード写真というものは大きく3つに分けられると思うのだけれど、(芸術性を感じるもの、性欲を満たすもの、生命そのものを感じるもの)彼女の写真はまさに生命そのもので、力強さと心もとなさが共存しているような、生々しさがある。「生きている」という、痛烈で、時に惰性めいたメッセージを、ありのままに見せてくれる。

彼女の写真集はすべて持っているけれど、中でも私にとって特別なのは塩原洋さんとの最初の写真集だ。一番辛かった19歳と22歳の夏、『きっと全部大丈夫になる』というタイトルのその写真集を、私は毎日お守りのように抱えて眠った。

塩原さんの撮る写真は信頼できる。はじめて見たとき、少しも嘘がないということは、こんなにもうつくしくて信頼できるものなのか、と驚いてしまった。まっすぐに見つめて撮った写真なのだと思う。

写真集の巻末には愛美さんのエッセイが載っていて、言ってしまえば私は写真と同じくらい(ひょっとすると写真以上に)そのエッセイが好きだ。好きとか嫌いとか、つらいとか苦しいとか、なにもかも剥き出しの言葉で書いてある。ヌードモデルというひとは、言葉さえも裸になれてしまうのだろうか。少しうらやましい。

先日ひさしぶりに彼女のインスタグラムを開いたら、「30歳になりました🌸」というキャプションと共に、あたらしい写真が投稿されていてうれしかった。2枚目の写真の笑顔がとびきりキュートで思わずスクショした。笑ったとき、鼻にくしゃっとシワがよる人がすきだ。早速カメラロールを開いてお気に入りフォルダに移しておく。これまでもこれからも、たぶんずっと大好きで、憧れのひと。

 

週末遊び歩いたせいか昨夜はひどく疲れていて、シャワーも浴びずソファで眠り、真夜中起き出して湯船に浸かった。

いつかの誕生日に貰った入浴剤をいれて、狭いユニットバスで伸ばせるだけ足を伸ばす。浴室のオレンジ色の蛍光灯に照らされた自分の身体が、なんだか知らないひとのもののように光っているのを、不思議な気持ちで眺めた。2週間前に転んで作った痣が、やけに青くて惚れ惚れした。お風呂から上がったら、冷凍庫のブルーベリーを解凍しよう。そんなことを考えながらこれを書いている。