たしかな愛

半分くらいはフィクションです。

寝不足にピンク

通知音で目が醒めて、開く画面はまぼろしだった。らしくないねって笑った君の目の奥のピンクが爪先に纏わりついたまま剥がれない。

染まりきってさよならって、どうせならもっとうまく笑えたらよかった。教えてもらった変な名前のバンドを、やっぱり好きになってしまって悔しい。消せないままのプレイリストを、そのまま聴き続けるくらいの格好悪さはゆるされるだろうか。

 

ぐずぐずと布団から這いだして遅めの朝食を済ませた後、浴槽の中で薄めの文庫本を1冊読んだ。読み終えるまで気付かなかったけれど、それは以前にも読んだことのある本で、でも、わたしは読んだことをすっかり忘れてしまっていた。

わたしは多分、あまりもの覚えがいい方ではなくて、だから本を読んでも読んだ端からすぐに忘れてしまう。それは欠点でもあり美点でもあるような気がする。いつでも新鮮な気持ちでいられるという点において。

この間インターネットで、「本は知識をインプットするための媒体に過ぎない。したがって、学びのない文学は無価値だ」と言っているひとがいて、わたしは心底驚いてしまった。

わたしにとって、本は空っぽになる為の水槽だ。水槽のなかを泳ぎ回って、自分がほとんど言葉そのものになるまで、泳いで、泳いで、後には心地よい熱っぽさだけが身体に残る。すこし、小学生の頃のプールの授業を思い出す。塩素のつんとした匂いと窓から入ってくるぬるい風。プールの後の国語の授業がいちばん好きだった。ふわふわと気だるさに包まれた教室は、いつもより少しぼやけていて、どこか現実離れしてみえた。そういえば、大好きだった国語の先生は「わたしは役に立たないものが好き。役に立つものばかりの世界だと息苦しいでしょう」と言っていたっけ。

無責任に、たゆたうように本を読みたいと思う。

 

お風呂あがり、足の爪を切った。前髪もすこし切った。誰に気付かれなくても生活はつづいていくし、小指に残ったピンク色も、そのうち忘れてしまうのだろう。

それは悲しいことではないのよ、と母が笑う。わたしには分からないよとふくれて見せたら「それじゃあ今夜は餃子にしようか。買い出し行こう」と母は立ち上がる。それじゃあ、ってなにそれって笑いながら、買い物カゴに大量のひき肉パックを入れていたら、途端に愉快になってしまって、困った。

山盛りの餃子で容易くご機嫌になれてしまう不謹慎さで、近所の野良猫とスキップしながら家に帰る。